2008年12月22日月曜日

研究会告知その2

第2回研究会

2009年最初の研究会は、レヴィ=ストロースの薫陶を受けたフランスの人類学者フィリップ・デスコラの「人類学的知識について」を読んで、議論をいたします。

◆日時

2009年1月10日(土)

14:00 ~18:00

◆場所

桜美林大学四谷キャンパスY302教室
JR四谷駅徒歩5分
電話:03-5367-1321
http://www.obirin.ac.jp/001/a028.html


Phillipe Descola
"On Anthropological Knowledge"を読む

*研究会の使用言語は日本語です。
*論文の日本語訳担当者は、すでに決まっております。
*参加ご希望の方は、下記のメールアドレスまで資料をご請求ください。
 折り返し、pdfファイルを添付送信いたします。

 
katsumiokuno@hotmail.com

2 件のコメント:

未開のスペシャリスト さんのコメント...

第2回研究会の追加情報です。"On Anthropological Knowledge"は、人類学調査と知識をめぐる特性が主題となっています。それをめぐる検討は、せいぜい1時間半くらいになる予定です。その後、初回の研究会の「対称性」の議論を発展させたいと思います。参考になる文献をあらかじめ掲げておくならば、中沢新一『古代から来た未来人』ちくまプリマー新書、2008です。詳しくは、以下までお問い合わせください。katsumiokuno@hotmail.com

未開のスペシャリスト さんのコメント...

【第一部】「人類学的知識について」前半の訳解

 社会科学のうち、人類学は、その主題の定義について考え続けている唯一の学問である。人類学は、親族体系、人格概念を分類し、神話、食物禁忌、植物の分類法などを分析しようとする。植民地拡張の過程で、他の学問が準備していなかった不在を、人類学がやり始めた。人類学では、記述方法は即興的につくられたし、分類基準は生み出されなければならなかった。その上で、今日、ほとんどの人類学者は、近代の周縁の、遠く離れた人たちだけを扱うことを強く否定する。「結果を考えないそうした無鉄砲さ」は、空港、ストリートギャング、産業プラント、遺伝子工学の実験室などを、人類学探究の視野に収める。それらは、かつては、宗教史や比較法のテーマであったが、人類学のリニューアルへの可能性であると考えられている。

 いったい、人類学の資産とは何か?メラネシアのイニシエーション儀礼の研究などから得られるレッスンが、近代病院におけるジェンダー格差など理解に対して、何の役に立つのだろうか?人類学は、伝統的な領域を超えて拡張してきたが、共通の言語、共通の目的、共通の手法がはたしてあるのだろうか?カルスタが人類学に介入して、アメリカで起こったことであるが、他の学問が、人類学が時代遅れだと決めつける前に、そうした問いを人類学自身で解いたほうがいいだろう。

人類学を、その内容によって定義する人たちがいる。それによれば、現代人類学が扱う主題は、ヨーロッパでは、「社会関係」である。ジェルによれば、「人類学は、非合理である行為、行動、発話などのきめ細かい分析を巧く行う」と捉えた。そのような定義は、合理的な行動のきめ細かい分析である、多くの人がやはり人類学であると考える、ハッチンスの米海軍訓練船内の認識のモノグラフを、人類学から除外してしまうことになる。ジェルの定義は、親族研究をさえも除外する。このように見ると、内容によって、人類学を定義することは、巧くいかないことになる(それは、だいたい、専門誌で広く認められているやり方である)。さらには、内容によって人類学を定義することは、「文化」なのか、「社会関係」なのかという、大西洋横断的な(アメリカとヨーロッパ間の)違いに向き合わなければならないという事実に答えることにはならない。

 それに対して、わたしが好む別のアプローチは、人類学に特有の調査手法を探すというものである。シチリアの村のあだ名の研究、婚姻交換の一般理論、儀礼効果の認識的な説明には、何の関係もないように思える。人類学者は、いったい何をしているのかということを、注意して見極めなければならない。人類学者は、実際の実践をくもらせるような規範的なディスコースを採用する。そのことによって、調査から対象化された結果について述べる傾向にある。

 ラドクリフ=ブラウン(以下RB)を、そうした調査手法を確立した例として取り上げてみよう。彼は、人類学を、個別記述的な学問ではなくて、法則定立的な学問であると捉えた。そのことによって、RBは、民族誌的なモノグラフにおいて役立つことになる、実践と制度のきめの細かい観察と記述が、人類学にとって助けとなるということを忘れたか、忘れたふりをしたのである。理論化の野望をもった人類学者たちが一般化したのは、つねに豊かに存在するデータからであったが、そのノウハウとは、じつは、フィールドワークをやっている間に立ち上がってくる。人類学の調査では、けっして明瞭ではない手続きをつうじて、データは獲得され、取捨選択され、提示されるが、これらは、人類学者以外に説明したり、学生たちに教えたりするのが難しい類のものである。つまり、人類学者は、意味のある一般化をしようとするときに使うことになる、他の人類学者によって集められたデータについて、直観的なつかみに頼っている。

 RBは、人類学を自然科学の延長であるとみなした。彼は、説明を、帰納的なプロセスであると捉えたのは正しくなかった。事実の観察、仮説の公式化、新たな観察による仮説の証明というのが、帰納的な方法である。民族誌家は、彼が対象とする社会に近接する社会において、十分な一貫性のある特性を提示する、信仰や制度の典型を見出そうとするときに、ふつう、そうしている(=帰納法を用いている)。しかし、このような帰納法が、自然科学のように、法則の定式化へとつながらない。他方で、演繹法について。それは、レヴィ=ストロースが、親族の基本構造を明らかにするときに用いた方法である。そのモデルの内部で働いている事柄な変容は、本当の現象の変容と同じものとして感じられるという特徴をもっている。  

研究対象の人びとの日常的な実践において、人類学者は多様な手法とパラダイムに頼っているが、その結果は、その実在そのものを維持する専門家のコミュニティーによって確証されるにすぎない。結局、以下の三つの手続きがあることになる。記述、理解、様々な形式の説明。それらは、以下の領域に対応する。統一体として描き出される特定の社会集団についてのデータ獲得としての民族誌。文化的な地域の尺度において、統合体を一般化する最初の試みとしての民族学。最後に、一般に、社会生活の形式的な特性の研究としての人類学。しかし、記述/理解/様々な形式の説明は、単純に分離できない、というスペルベルの批判がある。

 どのように、それらは混ざるのか。民族誌家は、計測具をもたないので、あらゆる事柄に注意を払う。書くときには、複雑な相互作用と行動の結果を示すことができなければならない。完璧にはマスターできない現地語において語られた発話を適切に起こさなければならない。民族誌的な知識は、特定の個人と他の特定の個人との個人的かつ持続的な関係に基づいている。それは、二度と同じことが起きないような状況から得られる知識である。その点で、厳密なデータではないし、対象社会で先行研究者によって得られたデータとも違う。それゆえに、集められるデータは、情報提供者への依存状況から切り離すことができない。民族誌家が得た知識は、教育に用いられ、そのことはこの学問の特徴であり、さらには、個人史ともなりうる。こういった全てのことが、人類学者にとって、ありふれたものである。民族誌の知識は、間主観的な交換状況から引き出される類のものなのである(後半に続く)。

・感想
 この論文は、人類学のフィールドワークと知識の特性について、一見、ひじょうにオーソドックスに見えるが、よく練られたものであり、幾つかの興味深いテーマを含んでいる。フランス人類学者デスコラ(以下D)は、ポストモダンの批評理論の影響を受けて、人類学の取り扱い項目を無批判に拡張させてきた、アメリカを中心とする人類学のありようを牽制しているようにも見える。

 Dによれば、内容によって、人類学を特徴づけることなどできない。だとすれば、人類学が取り上げる内容ではなくて、その調査手法と知識の特性を調べて見なければならない。Dは、RBを出発点として、人類学の調査と知識の獲得手法に乗り出してゆく。しかし、RBが目指した、法則定立的な人類学は危うい。人類学者は、間主観的な人間関係から、一回きりの出来事から、データを得る。それは、厳密性に欠ける、直観的なつかみという、いたってあやふやなものなのである。他方で、レヴィ=ストロースが取った手法から得られるモデルは、現地の当の人びとの認識する現象に合致する。Dは、どうやら、そこに、雑音としての「様々な手法やパラダイム」が不必要に入り込むことによって、民族誌の精度が低下すると考えているようでもある。Dがたどり着くのは、記述/理解/様々な形式の説明という人類学のトリロジーである。

 【第2部】「対称性」概念の探求

 第1部のDによる人類学の方法論の検討を踏まえて、中沢新一を介して、折口信夫の人類学的な方法を探る(あるいは、折口を介して、中沢の方法を読み解く)という試みがなされた。

 折口は、古代人は類化性能を用いていたし、折口自身がまさに類化性能に長けた古代人であった。類化性能とは、月と女性を、類似を介して、結びつけるような思考である。そこでは、満ちては欠け欠けては満ちる月と、1ヶ月ごとに生理を変化させ、命を生みだす女性との類似による世界理解がなされる。それは、対称性思考である。

 それに対して、別化性能とは、アリストテレス論理、非対称性論理であり、科学的思考のベースとなる。折口は、類化性能、対称性思考に貫かれていた古代人の心に迫ろうとした。それは、わたしたちの祖先が何を感じ暮らしてきたのかというという、日本列島に生き暮らした人びとの精神を探ることでもあった。折口は、自らの内側の記憶を掘り返すようにして、自らの学問を築き上げたのである。

 日本人が日本の世界のおおもとについて考えるとき、折口に倣って、右脳的な、感覚的な思考論理を駆使する必要がある。論理と実証では、古代人の思考にはたどり着けない。個人的な感想になるが、この点は、プナンの思考方法に接近するときに、大きな手がかりとなるのではないか。反省しない、時間観念がない、向上心がない・・・旧石器的とでもいうような、古代人のようなプナン人を理解するには、対象を「ほう」と眺めることから、古代人の思考になりきるという方法しか、他に方法はないのかもしれない。