2009年2月13日金曜日

研究会告知その4

第4回研究会

人間の知性を自然史のプロセスに挿入し、和解させようとしたレヴィ=ストロースの企てとは、どのようなものか?さらには、その企ての乗り越えは、どのように可能なのだろうか?研究会では、引き続いて、自然(ピュシス)をめぐる問題検討を行います。

◆日時

2009年3月31日(火)

14:00 ~19:00 くらいまで

◆場所

桜美林大学四谷キャンパスY305教室
JR四谷駅徒歩5分
電話:03-5367-1321
http://www.obirin.ac.jp/001/a028.html


・中沢新一「華やぐ子午線」『雪片曲線論』後半

・Philippe Descola and Gisli Palsson,
 “Introduction”, Nature and Society



*参加ご希望の方は、下記のメールアドレスまで資料をご請求ください。  折り返し、書誌情報とpdfファイルを添付送信いたします。
*なお、発表者の都合で、研究会のテーマを変更する場合があります。 だいたい研究会の1週間くらい前にお問い合わせください。
katsumiokuno@hotmail.com

1 件のコメント:

未開のスペシャリスト さんのコメント...

混乱したジャングル、経験のアマゾン河。それは人を不安にする。人間は、ジャングルを伐採し、言語的な秩序によって、ジャングルのなかに明晰の小島をつくる。明晰の小島に住むようになった人間は、ジャングルが以前よりも濃密になり、明晰な思考が届かないものとして、感じられるようになる。ダグラスやリーチといった構造主義者による象徴的思考とは、そうした知性の格好の例である。繁茂するジャングルは、清浄と不浄、秩序と混乱の弁証法的なプロセスによって説明されるが、そのことによって、けがれや不安は、つねに、濃密なジャングルのなかに封じ込められてしまう。そうした知性のあり方は、スピノザによれば、改善されなければならない。人間の知性が、自然化して、能産的な自然の純粋な力の場に触れるならば、カオスの闇、混沌、けがれや不安は消失するだろう。

ダグラスらの構造主義は、人間の知性を、言語によって、自然史から剥離しようとしてきた。言語とは、自然のプロセスからの飛躍によって生み出された、別の言い方をすれば、非連続性に基づいて組み立てられた別の秩序に属するものなのである。ところで、人間の知性を自然史に挿入し、和解させようと企てたのは、レヴィ=ストロースであった。しかし、結論から言えば、彼のもくろみは、スピノザの行き方には、たどり着いていない。遠回りして、神話論理の最終巻『裸の人』に取り上げられたエピソードによりながら、レヴィ=ストロースの論点を追ってみよう。

16ミリカメラを手渡されたナバホの人たちは、映像を記録する過程で、機織の前に座った婦人がナバホ織を織り上げるというプロセスに興味関心を示さず、糸を運搬していく光景ばかりを丹念に記録したりした。それは、パラディグマ軸の方向に映像をつむぎ出すのではなく、シンタグム軸の方向に、分解実験を行おうとしたということになる。彼らは、(わたしたちの)ハリウッド映画のように、言語秩序によって補強しながら、「上向的」プロセスをつうじて、物語を織り上げていくのではなくて、それとは反対向きに、「下向的」プロセスをつうじて、構造化のプロセスを分解しようとしたのである。レヴィ=ストロースは、前者を、自然史のプロセスから切り離された言語、構造を組み合わせて、つまり、非連続化することによって、「上向的」に神話を生み出そうとする情熱に、後者を、わずらわしいほどの細目に覆われ、反復をくりかえし、わざと極度に手の込んだ遊びに興じているかのように、つまり、生の流れの連続性を取り戻すがように、「下向的」に儀礼にいそしむ態度に対応させている。ナバホたちは、神話に向かう傾向が取りこぼしてしまう連続的な生の流れを回復しようとする欲望を実現する道具として、映像テクノロジーを捉えたのだと、レヴィ=ストロースはいう。

シンタグムの分解は、メトニミーに対応しており、微分化するという点で、儀礼に重なる(他方、パラディグマの拡大は、メタファーに、積分化に、神話に、重なる)。レヴィ=ストロースによれば、「儀礼を行う人は、動物に混じり、彼らの同類になり、性的な放縦や親族関係の混乱がしめす『自然状態』を、ふたたび生きることになる」という。しかし、儀礼とは、生の流れの連続性を回復しようとする望みにかけるが、けっして、思考の外部に出ることはないという意味で、思考のデカダンスであり、儀礼によるかぎり、人間は、自然史のなかに統合される望みを初めから絶たれていると、レヴィ=ストロースはいう。しかしながら、奇妙なことに、彼にとって、非連続の原理(神話、「上向的」プロセス、パラディグマ)こそが、人間を自然史のなかに統合しようとする構造主義の希望であると述べる。

レヴィ=ストロースのいう「自然」とは、結局のところ、美しいタンポポの花のように、思考のプロセスに内在するものと同じ非連続性の原理にしたがって、畸形化、怪物化することのない、「目的論的知性」を内蔵した自然のことだということになる。しかし、非連続性を実現している形態など、自然のなかに存在するのだろうか。そうしたレヴィ=ストロースの「上向的」な、神話へと向かう情熱を、自然と重ね合わせることなどできるのだろうか。徹底的に、「下向的」になり、生の流れの連続性を取り戻すような欲望へと降りてゆかなければならないのではないか。

中沢による、レヴィ=ストロースの乗り越えはこうだ。「レヴィ=ストロースは神話的思考のなかに、『目的論的理性』のもっとも純粋な結晶状態を見て、その結晶をとおして大脳の『自然』を外の世界の『自然』のうちに包み込み、統合しようとした。だが、このような状態のうちに『人間を自然のうちに統合』できると考えるのは、幻想にすぎない。思考のほうが『目的論的理性』の限界を超えて、『無限化』をめざしていかなければならないのだ。そのとき思考の生成をつき動かしている純粋な力は、文字どおり『自然な成長状態』を実現する。知性を『自然化』し『森林化』して『無限化』することができたときにはじめて、『改善』された知性は晴れ晴れとした自由のなかで、自然と精神をともに貫いて、そのそれぞれを無限の多様体として作りなしていく純粋な力の場に触れていくことができるのだ」。

手短な感想として、レヴィ=ストロースを転回点として語られる上述の問題は、広く、反哲学(西洋哲学から抜け出ようとする企て)に重なるのではないか。野生の思考とは、自然哲学の文脈において、ギリシャ以前の自然哲学に連なるものとして理解することができる。それが、第一点。中沢の問題意識は、ドゥルーズに端を発しているのではないか。スピノザ、ライプニッツ、ルクレティウスなどなどの言及と、着想の背景にドゥルーズ的なものがあるように思える。それが、第二点。以上、簡単な個人的な覚書として(奥野克巳)。