2009年6月21日日曜日

研究会告知その8

第8回研究会(合宿形式)

日時: 2009年7月11日~12日(土)
場所: 八王子セミナーハウス、松下館 セミナー室
http://www.seminarhouse.or.jp/index.html


デスコーラら(編)『自然と社会』( Nature and Society, Phillipe Descola and Gisli Palsson(eds.) 1996, Routledge)などのなかから、逐語訳をしながら、内容に関して、討論する。

7月11日(土)12:30~22:45

<プライオリティーを与えられた3論文>
・Philipe Descola "Beyond Nature and Culture" pp.2-14.
・Gisli Palsson “Human-Environmental Relations: Orientalism, Paternalism and Communalism”.
・Edward Hviding “Nature, Culture, Magic, Science: On Meta-languages for Comparison in Cultural Ecology”.

7月12日(日)8:30~9:00

・12月セミナーに向けた打ち合わせ

7月12日(日)9;15~17:55

・Tim Ingold “The Optimal Forager and Economic Man”.
・Philippe Descola “Constructing Natures: Symbolic Ecology and Social Practice”.
・Roy F. Ellen “The Cognitive Geometry of Nature: a Contexual Approach”.
・Laura Rival “Blowpipes and Spears: the Social Significance of Huaorani Technological Choices”.
・John Knight "When timber Grows Wild: the Desocialization of Japanese Mountain Forests".

*合宿形式の研究会です。

*参加ご希望の方は、下記のメールアドレスまでご一報ください。


*発表者の都合などで、必ずしも、上記の順番どおりで行うとは限りません。

*通常の研究会とはちがって、1回きりで議論が終わるのではなく、継続的に、議論を深めていくという形式でやっています。

*次回の研究会は、10月の予定です。

1 件のコメント:

未開のスペシャリスト さんのコメント...

【1】デスコーラの「自然と文化を超えて」

デスコーラは、デュルケームの社会形式の検討を経て、レヴィ=ストロースが「心の法則」を重視した点を、制度から知性へ(その逆ではない)という経路に基づく思考であると評価しながらも、なお、それでも不十分であると考える。レヴィ=ストロースを超えて、安定した諸関係のシステムとしての社会的現実は、人間が諸存在に帰することになる特性のシステムとしての存在論的現実に従属していると見なすべきであるという。この異端の見方を補強するために、デスコーラは、フッサールの言う身体と志向性を、身体性(physicality)と内面性(interiority)という言葉に置き換えた上で、それらは、西洋の構築物ではなくて、ヒトにとって内在的かつ特定的なものであると主張する。デスコーラによれば、その点を踏まえて、主体が、同一化(identification)のプロセスをとおして、周囲の環境を図式化するために、身体性と内面性という道具立てを用いるのだと捉えている。同一化というタームでデスコーラが言わんとしているのは、自分自身の特性であると彼が経験するものと彼を取り囲んでいる諸実在に帰するような特性の間の見かけとふるまいの類似と差異を推測することによって、彼自身と事物の間の差異と類似を検出するような原初的なメカニズムのことである。同一化のプロセスは、デスコーラによれば、以下の4つに限定されるのだという。①ある事物が彼に類似する内面性と身体性をもつ(トーテミズム)、②事物の内面性と身体性が彼自身と異なっている(類比主義)、③事物が類似する内面性と別の身体をもつ(アニミズム)、④事物と内面性は無縁であるが、類似した身体性をもつ(自然主義)。最初に、アニミズムの検討。魂の連続性と身体の不連続性を特徴とするアニミズムの体系では、ヒトと非ヒトが、同じ型の内面性をもつと考えられるという。ヒトと非ヒトには、それをそれとして認めるような内的な本質があり、その自律性を強調するために、異なる型の身体に宿っている。その衣服は身につけられたり、脱ぎ捨てられたりする。ヴィヴェイロ・デ・カストロによれば、あるタイプの身体にふさわしい生理学的および知覚的な制約が、それぞれのクラスの存在に対して、諸関係の一般生態学(the general ecology of relations)において、特定の地位と視点を押し付けるようになるという点で、衣服は、世界に対する対照的な見方を引き出すことになる。ヒトと非ヒトにおける人格は、生命圏に関する統合的な「文化的」見方をもつ。というのは、それらは、同種の内面性を共有しているが、おのおのが、弁別的な身体道具(=衣服)を用いるために、あらゆる実在が理解し、用いる世界が異質なものとなるからである。このような身体的な差異は、実体的であるというよりも、形態的かつ行動的なものである(Descola, Beyond Nature and Culture pp.2-4)。

【2】インゴルドの「最適採食者と経済的人間」

実体論的なマリノフスキー、形式論的なファースを経て、インゴルドは、狩猟採集民の行動を理解しようとする生態人類学に挑戦する。インゴルドによれば、真にエコロジカルであるとは、ヒトと環境の間に進行し、相互に構築的な契約の脈絡のなかで、人間の意図と行動を位置づけるものである。第一に、経済学的形式主義によって、狩猟採集民の行動を仮定する(経済的人間と見なす)ことは、理性が人類に共通する能力であることを示すものであり、与えられた状況において、合理的な行動を行う基礎に何があるのかを考えようとするものである。第二に、ヒト以外の動物は、採食戦略に対して効率的であることで生殖的に有利になるという自然淘汰のルールをベースにして、狩猟採集民の「最適採食理論(optimal foraging theory)」が提唱された。この両方の理論(経済的形式主義と最適採食理論)は、しかしながら、どちらも西洋科学の言説である。インゴルドの議論の出発点は、理性的能力(faculty of reason)や合理性を、社会的・文化的な制約との交渉のなかで、どのように理解すればいいのかという点にある。ウィンターハルダーはいう。「狩猟採集民あるいは採食者は、多様で偏りのある資源によって特徴づけられる環境に暮らしている。最適な食物種、採餌場ならびに藷経路の配置から、採食者は効果的な調達のための生存戦略を組み合わせることができる。採食者の選択は、生態環境への調整戦略、すなわち、進化過程と状況、時間および機会の制約に由来する適応パターンを形成する」。なんたる明瞭な説明か。しかし、インゴルドによれば、調整戦略と適応パターンは、相容れるものではない...続く。(Ingold, The Optimal Forager and Economic Man pp.25-8)。

【3】ライヴァルの「吹き矢と槍」

ライヴァルは、アマゾニアの狩猟採集民ワオラニ社会のヒトと動物の間の生きられた経験を民族誌的に記述し、武器による狩猟技術が、どのような社会的意義を持つのか、さらには、彼らの自然理解がどうなっているのかについて、解明しようとしている。ワオラニのハンターは、狩りの話を狩りに、行かない人たちにもする。ハンターの意見は、つねに、反論にさらされる。大人も子どもも狩りの話に熱中し、そのようにして、狩りの質が高められてゆく。ワオラニは、サルの識別(性別や長幼)に長けている。狙った動物が、魂を見せて目で話して命乞いをするときには、ハンターは別の動物に的を絞るという。サルのなかでも、とりわけ、ウーリーモンキーの社会的習性は、しばしば人間のものと比べられる(Rival, Blowpipes and Spears, pp.146-50)。

【4】デスコーラの「自然を構築すること」

自然という概念が社会的に構築されたことは、今日では広く認められている。自然と社会の二元論を、それを用いることがない他の文化へと投影すべきではない。さらには、自然と文化の二分法を人びとのやり方として用いるのは、誤りである。人びとは、非ヒト的な有機体を捉える範囲を、精霊、人工物、鉱物などなどへと拡大してきた。多くの文化では、人類学者が用いる狭い基準を超えて、非ヒトもまた、ヒトの特徴をもつとされている。わたしたちが陥っている自然主義の問題は、例えば、民族生物学が「自然」に存在する生物に対する分類や命名法の研究に野心的であるといったことのなかに見出されるのだ・・・続く(Descola, Constructing Natures, pp.82-3)。

【5】エレンの「自然の認知幾何学」の概要

エレンは、自然の事物性、外部性、内面性という三つの軸に拠りながら、自然認識の普遍的なあり方について議論している。事物性が、いわゆる所産的自然、内面性が能産的自然に対応するものとして読めそうである(Ellen, The Cognitive Geometry of Nature)。

【6】ナイトの「樹木が野生化するとき」の概要

ナイトは、和歌山県南部の本宮町でのフィールドワークに基づいて、人と山林の関係が、戦後日本の植林政策によって、どのように変化したのかを探っている(Knight, When Timber Grows Wild)。

【7】ヴィディンの「自然、文化、呪術、科学」

西洋の合理主義がよりどころとする諸前提が人類の普遍性を体現していると捉えてよいのか、さらには、それが、文化の翻訳において認識論的な優位に値するのかについて、人類学内外で、すでに多くの議論がなされてきた。レヴィ=ブリュルは、論理的な関係性に支配されない「未開人」の「前論理」を探ったが、後代の人類の普遍を探究する研究者たちによって、あいまいさの書棚へと送り込まれた。エヴァンズ=プリチャードは、アザンデ人の妖術に関する議論において、科学が複数の合理性に対する唯一の裁定者であり、妖術そのものは存在しないという見解を示した。これに対して、哲学者ウィンチは、アザンデの観念を西洋哲学と比較するのは不可能であり、西洋科学の論理は文脈に依存しない真実、あるいは唯一の裁定者たりえないと主張した。そうした人類学の相対主義的な研究の方向づけは、1950年代以降の「民族○○学」と名づけられる研究の乱立ぶりに連動している。民族生物学、民族植物学、民族数学、民族音楽学、民族哲学、民族精神医学などは、異文化の分類や分類法をめぐる研究がそれにあたる(Hviding, Nature, Culure, Magic, Science pp.165-7)。