2009年4月3日金曜日

研究会告知その5

第5回研究会

”レヴィ=ストロースの構造主義の着想の源となったヤコブソンの『一般言語学』の論文を読むとともに、デスコーラらによる「自然と社会」の序を読み進めて、検討を行います。

◆日時
2009年4月19日(日)12:00~17:00
◆場所
桜美林大学四谷キャンパスY305教室
JR四谷駅徒歩5分 電話:03-5367-1321
http://www.obirin.ac.jp/001/a028.html

・前半
ローマン・ヤコブソン
「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」
『一般言語学』みすず書房

・後半
・Philippe Descola and Gisli Palsson,
“Introduction”, Nature and Society


*参加ご希望の方は、下記のメールアドレスまでご一報ください。
 デスコーラらの論文のpdfファイルを添付送信いたします。
 katsumiokuno@hotmail.com
*発表者の都合で、研究会のテーマを変更する場合があります。
*次回以降の研究会は、5月17日(日)、6月14日(日)の予定です。

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未開のスペシャリスト さんのコメント...

今回は、これまでで最大の9人の参加を得て、研究会をおこなった。以下、研究会の検討事項の奥野克巳による個人的な覚書である。

【1】.ローマン・ヤコブソン「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」『一般言語学』みすず書房、をベースにした議論

わたしたちは、言語学の立場から、失語症を解明しようとしたヤコブソンの先駆的な試み(ローマン・ヤコブソン「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」)に寄り添いながら、最初に、言語の持つ二つの面について検討し、つづいて、言語とパラレルに構造化されている「無意識」の意味について議論した。その結果として、ヤコブソンの構造言語学が、いったい、どのように、レヴィ=ストロースの構造主義へと流れ込んでいったのか、さらには、そうした構造主義のアイデアを介して、わたしたちは、ヒトの心の働きを、どのように捉えればいいのかについて、ある見方を抉出することになった。

最初に確認したのは、言語の二つの側面についてである。シンタグマは、語をどのように並べるかという統辞であり、パラディグマは、語を置き換える範列である。別の言い方をすれば、シンタグマは、言葉の結合であり、パラディグマは、言葉の選択に関わっている。さらには、言語のシンタグマの軸には、部分が全体を現すメトニミー(換喩)が、パラディグマ軸には、類似に基づくメタファー(隠喩)が対応している。

ヤコブソンによれば、失語症には二つのタイプがあり、そのそれぞれは、「結合」能力(シンタグマ軸)の欠如と「選択」能力(パラディグマ軸)の欠如に照応する。一方で、結合能力の異常とは、シンタグマ的な、すなわち、メトニミー的な、「隣接性」の異常であり、逆に、「相似性」が優越するような状況を指す。そういった「隣接性」の異常による失語症は、語の統辞を失う。例えば、「えっと、学校・・・休んださっき・・・」というような、語の統辞に欠ける発話を行うことになる。

他方で、選択能力の異常とは、パラディグマ的な、すなわち、メタファー的な、「相似性」の異常であり、逆に、「隣接性」が優越するような状況を指す。そういった「相似性」の異常による失語症は、語そのものを失う。目の前にあるモノについて言うことができない。しかし、それを、文脈のなかで適切に用いることはできる。発話としては、例えば、「えっと、あれは、どうなりましたかね、それもそうだけど・・・」というようなものであろう。

しかし、こういったまとめ方は、事柄を、あまりにも単純化しすぎるものになっているのかもしれない。事実は、言語の複雑さと連動して、もっともっと複雑である。音素のレベルで、結合と選択に異常をきたす場合もある(例:pig →fig)。いやむしろ、実際には、そうした言語学研究の過程で、上のようなヤコブソンの研究へとたどり着いたのではないだろうか。

興味深いのは、「弁別特性」についてである。ある言語には、その言語の範囲内で見出される「弁別特性」がある。あらゆる音素は、母音性や子音性、高音調性、低音調性などの指標によって、+-の価値によって表すことができる(ある音素が、母音と子音の両方の弁別特性をもつ言語があるともいう)。ヤコブソンの「弁別特性」をめぐる業績は、わたしたちの話している言葉が、デジタル信号のように構造化されていることを顕著に示している。つまり、驚くべきことに、そして、レヴィ=ストロースが見出したように、わたしたちの内的自然は、「目的論的理性」とでもいうべきものに支配されているのである。

話がそれたが、本筋へと戻れば、わたしたちは、(失語症の苦しさを知らないがためにこういった表現にならざるを得ないが)ある意味で、誰もが、潜在的に失語症なのである。時に応じて、ヒトは、言葉を失う。

ところで、ヒトは、どういったときに、言葉を失うのだろうか?フロイトが、そのことを考えてみるための手がかりとなる。夢の構造を突き止めるなかで、フロイトは、象徴や時間系列が、語を転置する、シンタグマ的な「置き換え」と、意味を圧縮するような、パラディグマ的な「圧縮」とによって構成されることを指摘した(のだと、ヤコブソンを微調整して、整理しておくことにしよう)。

そういった置き換えと圧縮が、夢を見ているような「無意識」の状況において起こるのだとすれば、わたしたちは、中沢新一の以下の言葉に同意することになる。「流動的知性である無意識のしめす特徴的な運動が、意識の働きを生み出す言語の構造と、とてもよく似たところを持っている」(対称性人類学)。わたしたちの喋っている言語は、「無意識」のレベルで、それとほぼ構造的にパラレルなものを、潜在的に持っていることになる。

ひるがえって述べれば、そうした「無意識」とは、言葉によって抑圧されたものではなくて、レヴィ=ストロース的な意味での、それ自体が、独自の理性であるところの「目的論的理性」であるということになる。だとすれば、そうした「無意識」を、わたしたちは、それこそがヒトの知性であると信じて疑わない言語の秩序によって抑圧されてしまった状態から、引き上げてやらなければならない。二次的過程として「すでに構成された秩序」の側から、ストーリーがむちゃくちゃな夢や言い間違いとして、無意識の側から突き上げてくる「みずからを構成しつつある秩序」として、抑圧したまま理解するのではない、別の手続きを見出さなければならない。そうした「無意識」(とりあえず、ここでは、この言葉を使っておく)を持つことによって、ヒトの心は、現実世界から自由であることが可能となったという事実に対して、より高い価値を置くべきなのである。

レヴィ=ストロースの構造論を経由して、「無意識」をめぐる新しい思考のステージへとたどり着いた。そのとき、わたしたちは、「レヴィ=ストロースの方法はたんに分析の技術にとどまるものではなく、人間文化の深層にある一連の変形規則群を明るみにだすことによって、西欧中心の近代思考体系への根底的反省をうながす力を秘めていることになる・・・自らブリコラージュを演ずる精神のもち主でなければ、構造主義的分析のこころみは野生の思考とは異質な図式をいたずらに生みおとすおそれがある」(関一敏)という洞察に、深くうなずくことになる。

【2】.デスコーラとパルソンによる「序」『自然と社会』PP.1-5.の自由訳

人類学理論および社会的な言説における自然と環境というこの本のテーマは、けっして斬新なものではない。それは、早くから、人類学の中心的な関心事の一つであった。にもかかわらず、近年、広義における生態学は、ポストモダンおよび文化主義的なパラダイムが支配的なものとなったので、人類学の議論の周辺へと追いやられてしまった。このことは、多くの人類学の学科のカリキュラムにおいて、生態学のコースの供給減少(および、おそらくは、需要の低下)に現われている。しかし、人類学が、環境問題研究へと戻るにつれて、状況はふたたび変化しつつある。同じような状況は、哲学、歴史学、および社会学を含む、他の学問においても起こりつつある。

執筆者たちは、さまざまな理論的および民族誌的な遠近法から、自然―社会に焦点をあてて、近年の展開に迫っている。問いは、以下のようなものである;自然についての異なった文化モデルは、同じ認識的装置によって条件づけられるのか?わたしたちは、歴史的に相対的な自然―文化の二元論的なカテゴリーを、野生と社会化されたものという、より一般的な区別に置き換えることができるのか?非西洋の文化は、非ヒトに対する道徳的な態度の普遍性とその問題を再考するためのモデルを提供するのか?現代科学におけるある部門における自然―文化の対立のぼやけは、伝統的な西洋の宇宙論的および存在論的なカテゴリーの再定義を意味するのか?最後に、自然―文化の二元論についての理論的な拒絶は、たんに、中世初期のヨーロッパ世界の「生態学的」観念への回帰を意味するのか、あるいは、新しい種類の生態人類学へのステージをセットすることになるのか?序章は、この本のテーマの輪郭を示し、執筆者の理論的な枠組みと議論を振り返り、さらには、意見の一致のある領域と、不一致がある領域を定義する。

自然―文化の二元論

◆これまで、40年以上にわたって、自然と文化の二元論は、人類学の中心的な教義であった。それは、人類学のアイデンティティー・マーカーであり、さらには、新たなものを見出すための調査計画に対して分析ツールを提供した。

①唯物論者は、自然を、社会行動の決定要因と捉えた。文化生態学、社会生物学、マルクス主義人類学(という唯物論)にとって、人間の行動、社会的制度、文化的特徴などは、環境あるいは遺伝による制限に対する適応反応、あるいは、それらの表現にすぎないと捉えられた。それゆえに、内的あるいは外的自然は、社会生活の背後の巨大な駆動力となったのである。その結果として、非西洋文化が、どのように、環境や環境に対する文化の関係を概念化したのかについては関心が払われなかった。

②構造主義あるいは象徴人類学は、自然―社会の対立を、神話、儀礼、分類システム、社会生活など・・・を理解するための分析装置として用いた。しかしながら、分類のためのインデックスとしての自然と文化の観念の実際の中味は、西洋文化のものなのである。

①(唯物論)は、「文化を構成する自然」、②(構造主義/象徴人類学)は、「自然に意味を与える文化」として理解することができよう。

自然と文化をめぐって、繰り返し唱えられる批判とは、自然―文化の二項が、真なる生態学的理解を妨げることになるというものである。

インゴルド(2章)は、「経済的人間」(アダム・スミス)は彼自身の極限化の設計を与えられる一方で、「最適な調達者」(人類生態学)は、自然淘汰によって彼に与えられた戦略のたんなる遂行者であると解釈されることを示した。進化生態学は、自然的存在と環境との関わりに先立って、一連の能力に対して与えられる反―生態的なフィクションを生み出すことになるのだ。

同じような議論をしながら、ホルンボルグ(3章)は、人類生態学における<二元論>と<一元論>は、経済人類学の<形式主義>と<実体主義>に対応するという。二元論者が、自然の対象化、選択、脱文脈化を強調する一方で、一元論者は、自然に埋め込まれていること、自然の自律性を強調する。二元論は、人間―環境の関係性に対する、純粋な生態学的なアプローチを退けることになるのではないだろうか?

パルソン(4章)は、いったん自然と社会の存在論的な分割がなされると、それから逃れる道がないことを示唆している。

デスコーラ(5章)が指摘するように、その存在論的な分割は、唯物論者と文化主義者(構造主義/象徴人類学者)の理論的前提に混乱を生じさせる。文化生態学(=唯物論)は、それぞれの社会を特定の環境に適応するようなホメオスタティックな装置として捉える一方で、文化主義は、それぞれの社会を自然の秩序に意味を割り当てるシステムであると捉える。そうした定義は、西洋の自然の観念に由来することは特記されてよい。一方で、(唯物論的な)地理学的な決定論は、極端な生態学的相対主義を生み、他方で、(文化主義的な)文化相対主義は、自然についての普遍主義的な観念の想定を受け付けない。

二元論的なパラダイムは、生態学的知識と技術的なノウハウについての現地における形式の適切な理解を退ける。

ヴィディン(9章)は、民族生態学を、それが(西洋から出発しているため)別の民族認識論を用意できないし、さらには、ある地域の土着の知識を実体化しようとしているとして、批判する。人びとが、日常的な環境との契約のなかで、信念と実践(呪術や儀礼)によって行っていることを捉え損なってしまうのだ。

同じようにエレン(6章)は、科学的な分類法によって分類される自然についての階層的な概念が、彼自身の民族誌的なデータからは引き出されないことを示した。抽象的な事柄の目録としての自然は、土着の生きた文化のなかよりも、博物館においてより明瞭なかたちで現われる。ウィディンとデスコーラが指摘するように、ある地球上の地域の自然の普遍性は、西洋の自然観念を除いては、認識されることはない。

◆人類学において、自然と文化の区別が行われてきたことは、驚くべきことである。その区別は、さまざまな出所からあふれ出る証拠によって挑戦を受けてきた。三つの項目があるが、その一つ目は、生物学的な進化研究である。

ダーウィンとメンデルの理論において、有機体は、①遺伝子によって命じられる物体として、②機械的な適応プロセスをつうじて、淘汰圧として、受動的で、それらが生きている環境から切り離されて提示されてきた。何が問題かといえば、生物学を打ち立てるために、適応についての機械論的な観念が必要だったのだけれども、それ以外の道を閉ざしてしまうことになったということである。そうした進化的モデルは、ますます生物学的な事実に反する。別のモデルは、有機体は、自身の発達を構成する力を与えられていることを強調する。なかには、有機体と環境の関係は一方的でなく、互恵的であると唱えた研究者もいる。有機体は、環境と切り結ぶなかで、ニッチを構築する。言い換えれば、進化する有機体は、それ自身に働きかける選択圧のひとつでもある。